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銘書からわかる各墓の様相

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 158-162)

75 ­第39図 012号墓出土遺物 1

第2節  銘書からわかる各墓の様相

003号墓 (不明) 

 紀年銘が確認できず、墓の使用年代は不明である。銘書の確認できる蔵骨器は2点で、「先真」とい う屋号が確認できる。

004号墓 (粟国・西原・比嘉・外間家の墓)

 該墓中でもっとも古い紀年銘を持つ資料は蔵骨器15の康煕56年(1717)であり、もっとも新しい紀 年銘を持つ資料は蔵骨器45の光緒2年(1876)であることから近世期に造墓・使用された墓と考えら れる。また、蔵骨器17の被葬者が「粟国掟親雲上男子三ら西原」「三ら西原女子かま戸」「うし比嘉」 の3人であることから、粟国・西原・比嘉の3系統が使用していることがわかる。外間については他の 被葬者との関連性は不明。なお、西原系統では「粟国」が屋号として使用されており、粟国から西原に 家名が変わったのちに元の家名が屋号化した可能性も考えられる。

 『城間字誌』第1巻の屋号調査に粟国の名前が見えるため、004号墓を利用した人々は城間村の人々 であると考えられる。ただし、蔵骨器34は首里士族の「馬氏板良敷親雲上室真靍」が納められている。 銘書からは004号墓の被葬者との直接的な関連が見いだせないものの、古墓群のなかに士族の墓は確認 できないため何らかの理由で004号墓に持ち込まれたと考えられる。

005号墓 (粟国家の墓)

 近代から戦後にかけて使用された墓。粟国姓を名乗り、屋号は「粟国小」であることがわかる。4号 墓の「粟国」の分家か。

第19節 050号墓 ・ 051号墓

(1)遺構(第90図、図版38)

 050号墓及び051号墓は調査区丘陵の西斜面にあり、前述の第5節016号墓の南側の位置に構築された 掘込墓である。両墓のさらに南側の同標高には同じく掘込墓の017号墓が所在し、標高15m〜16mの位置 に堀込墓が3基並ぶ。本墓の050号墓及び051号墓は埋没した状況で検出された。高さ1mに満たない丘 陵の小さな面に掘り込まれた掘込墓で墓庭は見られない。050号墓が051号墓よりも低い位置に構築され ている。

 050号墓は閉塞石が一部残存するものの墓口は開口した状態で埋没していたため墓室内へ土が流入し ていた。墓室にタナ(棚)は見られず、墓室は墓口の高さよりも掘り下げて造られている。墓口には約0.25 mの礫が残存しており、礫を使用しての野面積みによる閉塞が考えられる。墓室の奥行きは約0.53m、幅 約1.1m、高さ約0.50m。墓室向かって左側の床に0.15m前後の礫を数個敷き、その上に蔵骨器を据えて安 置していた状況が窺えた。シルヒラシは見られず、蔵骨器を安置するのみの墓であることが考えられた。

 051号墓も050号墓と同様に墓口が開口した状態で埋没していたため墓室内へ土が流入する。蔵骨器が 2点安置された状態で検出された。墓室の床面は墓口の高さとほぼ同一で、050号墓のように掘り下げら れていない。墓室の奥行きは約0.65m、幅約0.94m、高さ約0.6m。墓室床の中央に高さ約0.12m、厚み約 0.03mの板状の礫を立てるように据えており、それにより墓室が左右に区切られる。墓室よりボージャー 形が2点出土した。土の流入によるものなのかマド枠は正面を向いていない。050号墓と同様シルヒラシ は見られず、墓室は出土した2点分の広さしかないため、これらの蔵骨器を安置するための墓であること が考えらえる。

 050号墓から出土した蔵骨器はマンガン釉甕形で第91図蔵骨器1である。身は屋門が退化し、孔が3か 所穿孔されるのみである。安里編年のⅥ期(1930年以後)の資料と考えられる。051号墓から出土した蔵骨 器は2点ともボージャー形で第92図の蔵骨器1と蔵骨器2である。蔵骨器1は向かって左側に安置され ており、蔵骨器2は右側に安置されていた(第89図)。蔵骨器1の蓋は安里分類のⅦ式(1750〜1820)の資 料、身は安里分類のⅥa式(1770〜1810)で、両者の重なる時期は1770年〜1810年となる。蔵骨器2の蓋は つまみが見られず、つまみ台も無いことから安里分

類のⅦ式(1750〜1820)と見られ、身は安里分類のⅣ a式(1720〜1820)の資料に相当する。両者の重なる 時期は1750年〜1820年となる。2点のボージャーを 比較すると蔵骨器2が若干古手になると考えられる が、当墓は概ね18世紀後半から19世紀初め頃に使用 された墓ということが想定できる。050号墓はさら に下り20世紀中頃に使用された墓ということが考え られる。出土した蔵骨器から両者の墓は051号墓が 古く、050号墓が後の時期に造られたことが考えら れる。両墓の北東側に016号墓が所在し、016号墓の 使用時期が18世紀中頃から20世紀初め頃が想定で きるため、051号墓は同時期に使用されていた状況

が窺える。銘書が見られなかったため被葬者の特定が困難だが、位置関 係や使用時期からみて袖墓のような近縁者の可能性が考えらえる。

(2)遺物(第91図〜第92図、図版71)

 050号墓は墓室からマンガン釉甕形の蔵骨器1点及び墓周辺より煙 管が出土した。第91図256の蓋はつまみが無く、つまみ台を1段有す る。かえりは見られない。257の身は横帯2が無く、屋門も施されていな い。約7㎜の小孔が3箇所三角形状に穿孔される。第91図258は煙管の 雁首で青銅製。内部にラウが一部残存する。021号墓出土の雁首のよう に灰落としの叩き跡は見られない。

 051号墓は墓室からボージャー形の蔵骨器1・2が出土した。第92図 259はつまみやつまみ台が見られない笠形の蓋である。260の身は頸部 沈線が4本、胴部は無文で、平葺形のマド枠左側にカマ印が見られる。 焼成不良によるものか器形に歪が生じている。第92図261はつまみは 見られないが蓋裏の中心に孔が見られる。鍔端部は平坦だが端部の一 部が内側に折れる。262の身は頸部沈線が3本、胴部は無文で、平葺形の マド枠が貼り付けられる。

009号墓 (西原家の墓)

 王国時代末期から近代にかけて使用された墓。該墓中でもっとも古い紀年銘を持つ資料は道光29年

(1849)である。被葬者は西原筑登之親雲上で「一世」と同義であると考えられる「元世」と記されているこ とから、この人物から分家をしたと考えられる。また、屋号が「新屋」であることも、その証左であるといえ る。

012号墓 (内間・比嘉家の墓)

 近世期に使用された墓。乾隆年間には比嘉、嘉慶年間以降は内間を姓に持つ人々が葬られている。

014号墓 (我謝・我如古・宮城家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。銘書に「城間村」の文字が現れることから、城間村に居住した人々 であることがわかる。「新門」という屋号が登場する。

016号墓 (内間・西原家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。

018号墓 (古波蔵家の墓)

 近代に使用された墓。

021号墓 (宮城・古波蔵家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。具体的な死去・洗骨年は不明だが、第55図183の蔵骨器には「前の ろくもい」と記された人物が納められている。近世の城間村の祭祀は城間ノロが管理していたため、被葬 者は城間ノロを勤めた人物の可能性もある。

022号墓 (又吉家の墓)

 近代に使用された墓。昭和20年4月に死亡もしくは洗骨した人物が3人おり、死去年と考えれば沖縄戦 の戦没者の可能性もある。また、被葬者男性の名乗り頭に「伍」の字が使われているが、近代以降城間村で 使われ始めた名乗り頭であるので、城間村の人々であることがわかる。

025号墓 (不明)

 第62図204の蔵骨器には「大清」の文字が確認できるため、近世から使用された墓であると考えられる。

032号墓 (又吉家の墓)

 蔵骨器には浦添間切の地方役人である沢岻掟を勤めた又吉山戸の男子の徳と又吉山戸が納められてい る。被葬者の又吉山戸は「三才」であったことが記され沢岻掟の又吉山戸とは別人である。

039号墓 (津波・比嘉家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。蔵骨器には伊祖掟と記されたものもあり、浦添間切の地方役人を 務めた人物も納められている。また、明治以降の銘書には「久場川小」という屋号が登場する。「久場川小」

は『城間字誌』でも確認することができる。

040号墓 (仲西家の墓)

 蔵骨器には光緒3年(1877)に洗骨された前・仲西親雲上と、光緒7年(1881)に洗骨された同人の妻が 納められている。仲西親雲上とは浦添間切の地頭代に任ぜられた人物が称する名前であるため、被葬者は 王国時代末期に浦添間切の地頭代を勤めた人物であることがわかる。

041号墓 (津波家の墓)

 五男のかま戸という人物が七月七日に洗骨されたことがわかる。

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 本調査では、合計51基の墓が検出された。これらの遺構と出土遺物の概要については、前章で報告を 行った。本章では、蔵骨器に記された銘書についてその詳細を報告する。報告は、銘書の内容を整理し た上で、各墓の様相について所見を述べる。

第1節 資料の概要

 銘書とは蔵骨器(厨子甕)に記された墓誌銘を指す方言である。その主な記載内容としては、被葬者 の姓名、位階、死亡・洗骨年月日などが挙げられる。銘書は基本的に墨書で記され、蔵骨器の蓋と身に 記される。

 本調査によって出土した蔵骨器の銘書の詳細については第49表から第53表に示した。同表は銘書の記 された蔵骨器を各墓単位の取上番号順に並べ、それぞれの銘書の内容と被葬者名、死去・洗骨年を記載 したものである。また、関連する情報は「備考」に記載した。

第2節 銘書からわかる各墓の様相

003号墓 (不明) 

 紀年銘が確認できず、墓の使用年代は不明である。銘書の確認できる蔵骨器は2点で、「先真」とい う屋号が確認できる。

004号墓 (粟国・西原・比嘉・外間家の墓)

 該墓中でもっとも古い紀年銘を持つ資料は蔵骨器15の康煕56年(1717)であり、もっとも新しい紀 年銘を持つ資料は蔵骨器45の光緒2年(1876)であることから近世期に造墓・使用された墓と考えら れる。また、蔵骨器17の被葬者が「粟国掟親雲上男子三ら西原」「三ら西原女子かま戸」「うし比嘉」 の3人であることから、粟国・西原・比嘉の3系統が使用していることがわかる。外間については他の 被葬者との関連性は不明。なお、西原系統では「粟国」が屋号として使用されており、粟国から西原に 家名が変わったのちに元の家名が屋号化した可能性も考えられる。

 『城間字誌』第1巻の屋号調査に粟国の名前が見えるため、004号墓を利用した人々は城間村の人々 であると考えられる。ただし、蔵骨器34は首里士族の「馬氏板良敷親雲上室真靍」が納められている。 銘書からは004号墓の被葬者との直接的な関連が見いだせないものの、古墓群のなかに士族の墓は確認 できないため何らかの理由で004号墓に持ち込まれたと考えられる。

005号墓 (粟国家の墓)

 近代から戦後にかけて使用された墓。粟国姓を名乗り、屋号は「粟国小」であることがわかる。4号 墓の「粟国」の分家か。

第19節 050号墓 ・ 051号墓

(1)遺構(第90図、図版38)

 050号墓及び051号墓は調査区丘陵の西斜面にあり、前述の第5節016号墓の南側の位置に構築された 掘込墓である。両墓のさらに南側の同標高には同じく掘込墓の017号墓が所在し、標高15m〜16mの位置 に堀込墓が3基並ぶ。本墓の050号墓及び051号墓は埋没した状況で検出された。高さ1mに満たない丘 陵の小さな面に掘り込まれた掘込墓で墓庭は見られない。050号墓が051号墓よりも低い位置に構築され ている。

 050号墓は閉塞石が一部残存するものの墓口は開口した状態で埋没していたため墓室内へ土が流入し ていた。墓室にタナ(棚)は見られず、墓室は墓口の高さよりも掘り下げて造られている。墓口には約0.25 mの礫が残存しており、礫を使用しての野面積みによる閉塞が考えられる。墓室の奥行きは約0.53m、幅 約1.1m、高さ約0.50m。墓室向かって左側の床に0.15m前後の礫を数個敷き、その上に蔵骨器を据えて安 置していた状況が窺えた。シルヒラシは見られず、蔵骨器を安置するのみの墓であることが考えられた。

 051号墓も050号墓と同様に墓口が開口した状態で埋没していたため墓室内へ土が流入する。蔵骨器が 2点安置された状態で検出された。墓室の床面は墓口の高さとほぼ同一で、050号墓のように掘り下げら れていない。墓室の奥行きは約0.65m、幅約0.94m、高さ約0.6m。墓室床の中央に高さ約0.12m、厚み約 0.03mの板状の礫を立てるように据えており、それにより墓室が左右に区切られる。墓室よりボージャー 形が2点出土した。土の流入によるものなのかマド枠は正面を向いていない。050号墓と同様シルヒラシ は見られず、墓室は出土した2点分の広さしかないため、これらの蔵骨器を安置するための墓であること が考えらえる。

 050号墓から出土した蔵骨器はマンガン釉甕形で第91図蔵骨器1である。身は屋門が退化し、孔が3か 所穿孔されるのみである。安里編年のⅥ期(1930年以後)の資料と考えられる。051号墓から出土した蔵骨 器は2点ともボージャー形で第92図の蔵骨器1と蔵骨器2である。蔵骨器1は向かって左側に安置され ており、蔵骨器2は右側に安置されていた(第89図)。蔵骨器1の蓋は安里分類のⅦ式(1750〜1820)の資 料、身は安里分類のⅥa式(1770〜1810)で、両者の重なる時期は1770年〜1810年となる。蔵骨器2の蓋は つまみが見られず、つまみ台も無いことから安里分

類のⅦ式(1750〜1820)と見られ、身は安里分類のⅣ a式(1720〜1820)の資料に相当する。両者の重なる 時期は1750年〜1820年となる。2点のボージャーを 比較すると蔵骨器2が若干古手になると考えられる が、当墓は概ね18世紀後半から19世紀初め頃に使用 された墓ということが想定できる。050号墓はさら に下り20世紀中頃に使用された墓ということが考え られる。出土した蔵骨器から両者の墓は051号墓が 古く、050号墓が後の時期に造られたことが考えら れる。両墓の北東側に016号墓が所在し、016号墓の 使用時期が18世紀中頃から20世紀初め頃が想定で きるため、051号墓は同時期に使用されていた状況

が窺える。銘書が見られなかったため被葬者の特定が困難だが、位置関 係や使用時期からみて袖墓のような近縁者の可能性が考えらえる。

(2)遺物(第91図〜第92図、図版71)

 050号墓は墓室からマンガン釉甕形の蔵骨器1点及び墓周辺より煙 管が出土した。第91図256の蓋はつまみが無く、つまみ台を1段有す る。かえりは見られない。257の身は横帯2が無く、屋門も施されていな い。約7㎜の小孔が3箇所三角形状に穿孔される。第91図258は煙管の 雁首で青銅製。内部にラウが一部残存する。021号墓出土の雁首のよう に灰落としの叩き跡は見られない。

 051号墓は墓室からボージャー形の蔵骨器1・2が出土した。第92図 259はつまみやつまみ台が見られない笠形の蓋である。260の身は頸部 沈線が4本、胴部は無文で、平葺形のマド枠左側にカマ印が見られる。

焼成不良によるものか器形に歪が生じている。第92図261はつまみは 見られないが蓋裏の中心に孔が見られる。鍔端部は平坦だが端部の一 部が内側に折れる。262の身は頸部沈線が3本、胴部は無文で、平葺形の マド枠が貼り付けられる。

009号墓 (西原家の墓)

 王国時代末期から近代にかけて使用された墓。該墓中でもっとも古い紀年銘を持つ資料は道光29年

(1849)である。被葬者は西原筑登之親雲上で「一世」と同義であると考えられる「元世」と記されているこ とから、この人物から分家をしたと考えられる。また、屋号が「新屋」であることも、その証左であるといえ る。

012号墓 (内間・比嘉家の墓)

 近世期に使用された墓。乾隆年間には比嘉、嘉慶年間以降は内間を姓に持つ人々が葬られている。

014号墓 (我謝・我如古・宮城家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。銘書に「城間村」の文字が現れることから、城間村に居住した人々 であることがわかる。「新門」という屋号が登場する。

016号墓 (内間・西原家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。

018号墓 (古波蔵家の墓)

 近代に使用された墓。

021号墓 (宮城・古波蔵家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。具体的な死去・洗骨年は不明だが、第55図183の蔵骨器には「前の ろくもい」と記された人物が納められている。近世の城間村の祭祀は城間ノロが管理していたため、被葬 者は城間ノロを勤めた人物の可能性もある。

022号墓 (又吉家の墓)

 近代に使用された墓。昭和20年4月に死亡もしくは洗骨した人物が3人おり、死去年と考えれば沖縄戦 の戦没者の可能性もある。また、被葬者男性の名乗り頭に「伍」の字が使われているが、近代以降城間村で 使われ始めた名乗り頭であるので、城間村の人々であることがわかる。

025号墓 (不明)

 第62図204の蔵骨器には「大清」の文字が確認できるため、近世から使用された墓であると考えられる。

032号墓 (又吉家の墓)

 蔵骨器には浦添間切の地方役人である沢岻掟を勤めた又吉山戸の男子の徳と又吉山戸が納められてい る。被葬者の又吉山戸は「三才」であったことが記され沢岻掟の又吉山戸とは別人である。

039号墓 (津波・比嘉家の墓)

 近世から近代にかけて使用された墓。蔵骨器には伊祖掟と記されたものもあり、浦添間切の地方役人を 務めた人物も納められている。また、明治以降の銘書には「久場川小」という屋号が登場する。「久場川小」

は『城間字誌』でも確認することができる。

040号墓 (仲西家の墓)

 蔵骨器には光緒3年(1877)に洗骨された前・仲西親雲上と、光緒7年(1881)に洗骨された同人の妻が 納められている。仲西親雲上とは浦添間切の地頭代に任ぜられた人物が称する名前であるため、被葬者は 王国時代末期に浦添間切の地頭代を勤めた人物であることがわかる。

041号墓 (津波家の墓)

 五男のかま戸という人物が七月七日に洗骨されたことがわかる。

ドキュメント内 浦添市文化財調査報告書 | 浦添市 (ページ 158-162)

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